幸福論




 「コーヒーでよろしいですか、お姉さま」

 首だけでわたしを振り返り、訊く。
 わたしはそれに一言肯定の言葉を返して、誤魔化すように伸びをした。

 仕草の一つ一つが奥ゆかしく。
 触れると溶けてしまいそうな程柔らかい髪は、やはり綺麗で。


 「どうぞ」
 「ん。ありがと」


 強がりで、頑固で、真面目すぎる性格。

 できれば、わたしが楽にしてあげたかったんだけどなぁ…。


 願っても、祈っても、時は止まってはくれなくて。
 わたしにはもう、卒業というタイムリミットがきてしまった。


 「…………」
 「…………」


 無言に、互いの時間を共有する。

 今までどれ程の時をこうして過ごしただろう。

 半年間。
 どれ程…。


 必死で守った、志摩子の心。
 優しく包まれた、わたしの心。




 愛している。




 あまりにも陳腐で、使い古された言葉さえ言えない。


 言わない。



 苦しくない、なんてことはないけど。




 「ん〜、やっぱり志摩子の淹れてくれたコーヒーは格別」
 「そうですか? 光栄ですわ」



 だけど。
 こうして、隣で微笑んでくれる。
 わたしを、認めてくれる。



 だから、少しくらい苦しくても。


 わたしはしあわせ。


 幸せだったよ。




 少し、無責任かもしれないけど、
 きっと、春が来れば…。

 志摩子も幸せになれるよ。

 わたしは、一歩、踏み込むことが出来なかったから。
 救えなかったから。




 きっと、誰かが救ってくれる。




 「あぁーあ! でもやっぱり、なんか悔しいなぁ」
 「きゃっ!? ど、どうされたのですか、突然…」
 「ん? なんでもないよ」
 「??」



 混乱してる表情もかわいいなぁ。


 「あ、誰か来たみたいだ。この足音は祐巳ちゃんかな?」



 この幸福を独り占めするのも最後か。



 「志摩子」
 「!?」

 わたしは左手でそっと志摩子の頬を、髪と一緒に撫でた。


 「甘〜いココア、用意してあげて」
 「あ…は、はい」


 わたしの突然の行動に少々面食らいながらポットの方へ行く。

 それと同時に、ビスケット扉が開いた。




 あと僅か。

 残された時間、きみだけを大切に想う。





『幸福論』 終わり




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