時々、この幸せが怖くなる。
 先の事を考え過ぎないように、何かを押さえ込んでいる自分がいる。



 大切な時を、場所を、貴女を―――


 失いたくないと、願っているから。


 無くならないでほしいと、想っているから。



 欲しがりの私を認めて。
 堕ちても、沈んでも私の背を踏めば、楽に立っていられるから。


 だから、私は今、貴女を見つめて―――。





月に負け犬




 「志摩子さん?」
 「…え?」


 名を呼ばれて、はっとする。
 意識が飛んでいたようだ。


 「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
 「あ…、ごめんなさい。 大丈夫よ」


 何が。
 何が大丈夫なんだか…。


 「ううん。 大丈夫じゃないでしょ。 少し休もう」

 言って、乃梨子が席を立ち、紅茶を入れる準備を始める。



 小さな背中。
 身長もたいして自分と変わらないのに、彼女の方が随分としっかりしていて。


 私が、しっかりしなきゃいけないのに。



 「志摩子さん。ホントどうしたの? 何か悩み事とかあるの?」


 紅茶が目の前に置かれると同時に言われた。

 ああ。また……。


 「いいえ。ごめんなさいね、乃梨子」

 「どうして謝るのさ? …志摩子さんさ、もっと、色々話してよ。頼りないかもしれないけど、私に出来ることだったら何だってするし、姉妹とか関係ないよ。 もっと…なんてゆーか、楽にしてよ」

 「乃梨子…」


 必死に、私に伝えようとしてくれている。

 こんなに、想われている。
 想ってくれている。



 私の心を占める乃梨子の部分が、どんどん大きくなっていってしまう。


 私は沈んでゆく。


 けれど



 「…え?」

 乃梨子を抱きしめる。
 急に立ち上がった衝撃で、テーブルとカップが音を立てた。


 「ありがとう、乃梨子」


 貴女は、沈まないで。



 「志摩子さん…」


 ゆっくり、体を離す。


 紅茶よりも鮮やかに染まった頬が。
 動揺で少し泳ぐ瞳が。



 「さ。仕事、しなくちゃね」
 「え…あ、うん…」

 押さえ込む。

 私は、十分過ぎるほどの幸せを貰っているのだから―――。





『月に負け犬』 終わり




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